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自分のためのアウトプット

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Jun
22nd
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僕、種をまく人。あなた、育てる人。

 以前僕がとある小説コミュニティに関わっていて、そのウェブサイトの運用を任されそうになった時、僕が主張したのは、「信頼できる第三者に運用を任せよう」ということだった。明らかに僕のレンタルしているサーバーの方が高機能なのに、わざわざ無料のホスティングサービスを探してきて、その性能に合わせてアプリケーションを作った。僕がサーバー代を払わなくなることを恐れたからだった。

 これは、決して、僕が僕自身を信用していないという意味ではない。むしろ僕は、滅多なことではサーバー代を払わなかったり、今あるウェブサイトを停止したりといったことはしないと断言できる。けれど、それでもなお、無料ホスティングサービスの方が信頼できるだろうと、合理的に判断したつもりだ。ウェブサイトを恒久的に残すという観点から見れば、間違ったことはしていない。

 ほんの少しウェブサイトの安定性を向上させるために、ずいぶんと無駄なことをしたものだと思われるかもしれない。それでも、僕は構わない。なぜなら小説コミュニティのウェブサイトが消えるということは、それまでにそこで発表されてきた全ての小説が消えてなくなってしまうということだからだ。バックアップは施されている。しかし、ウェブサイトが消えてしまえば、インターネットを通して世界を見る人たちにとって、もはや小説の原典を手に入れることはできなくなる。それはとても危険だと思う。

 過去への参照が断たれたとき、あなたはそれをどのように感じ取るだろうか? たとえば、以前気に入っていたブログの記事が、なぜか突然消されてしまったとき、あなたは何を思うだろうか? ブログの著者にとって何か不都合な事実が書かれていたのだろうか? それとも、この記事はなかったことにしてもらいたいと、そう言っているのだろうか? 理由はともあれ、あなたの心の中には、何かもやもやとした気持ちが残ると予想できる。

 過去への参照は消せない。原典を消しても引用は残るもの。引用はされなくとも、一度発表された作品は誰かの目に留まって、そして鑑賞されて、人の心に何かを残す。大きいか小さいかは分からないが、その人の記憶の一部になる。作品を発表している以上、このようにして誰かの記憶にちょっとした種を植え付けることを目的としているのではないだろうか。そして、その種は一度ばらまいたら、未来永劫人の記憶から消すことはできない。作品の鑑賞は自由であるべきだ。それが作品の発表に伴う前提であって、少なくとも僕はそういう前提のもとに文章や、絵や、その他のものをこの世界に生み出そうとしてきた。

 その前提を受け入れるならば、原典を消すことはナンセンスだ。人の心に残るものは、原典を消したって残り続けるのだから、原典を削除することには意味がない。そればかりか、鑑賞者にとっては二度目三度目の鑑賞も、作品を頭脳に植え付ける行為に他ならないわけだから、その点をも否定してしまうことに繋がる。作品に対する鑑賞の否定である。作品が鑑賞を前提として成り立っているという、当の仮定を満たすためには、できる限り原典への参照を保存することが必要だ。そうする意志がないのならば、あなたの作品は「誰からも鑑賞されたくない」と言っているようなものだろう。